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2013年2月28日 (木)

地域内分権組織って何だ?

地域内分権組織に関する情報収集から
 2013年2月26日、横須賀市役所(都市政策研究所、市民生活課)で、地域内分権組織についてヒアリングをしてきた。やっぱり、現場の人の話は参考になる。この日は、都市政策研究所の研究員とともに、実際に「地域運営協議会」を担当している市民生活課のスタッフの方にもお話を伺った。
 今、地域内分権組織は、住民自治の仕組みとして注目されている。神奈川県内では、相模原市、横須賀市、逗子市、平塚市で導入(モデル事業)が進んでいる。藤沢市については、市長の交代により見直しが検討されているようだ。

【定義】-『よこすか白書2011』p.3より引用
地域内分権組織とは、基礎自治体内を合併前の旧市町村、中学校区、小学校区、支所、連合町内会などのいくつかの区域に分け、各区域に地域住民を構成員とした組織を設置して、住民自治を推進する仕組みである。また、組織の形態を分けると大きく4つに分類することができる。
 1つ目は、自治体が条例や要綱に基づき独自に分権組織を設置する場合である。設置区域は支所、連合町内会、中学校区、小学校区など市町村によって異なる。これを便宜上、独自型と呼ぶ。本市の取り組みはここに位置付けられる。
 2つ目は、地方自治法(地方自治法202条)に基づき市町村が定める区域に地域自治区を設置する場合で、地域自治区には地域協議会が置かれる。これを便宜上、一般地域自治区型と呼ぶ。
 3つ目は、合併特例法(合併特例法23条)に基づき旧市町村を単位とする区域に地域自治区を設置する場合で、地域自治区には地域協議会が置かれる。これを便宜上、合併地域自治区型と呼ぶ。
 4つ目は、合併特例法(合併特例法26条)に基づき旧市町村を単位とする区域に合併特例区を設置する場合で、合併特例区には合併特例区協議会が置かれる。これを便宜上、合併特例区型と呼ぶ。

「先行市から学ぶ地域内分権組織の現状と課題」の詳細については、『よこすか白書2011』にまとめられているので、この分野に関心のある方は、ぜひダウンロードしてみてください。http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0110/upi/jouhou/documents/hakusyo_2011.pdf

ヒアリングの中で感じたことを少々メモしてみると…

【研究員から】
・現市長のマニュフェストの中に「地域運営会議の設置」という項目があり、施策づくりの参考とするために、「地域内分権組織」に関する調査研究をすることになった。
・調査研究の情報収集にあたっては、日本都市センターや自治総合センターの報告書等を参考にした。
・横須賀市の調査では、「民主的正当性、予算、事業」の3つの視点から分析をした。
・同じ「地域内分権組織」という名称を使っていても、その内実は相当バラエティがある。
・習志野市では、行政の担当者が地域内分権組織の事務局を務めている。
・地域内住民間の合意形成にあたり、コアメンバーと総会という2層構造になっている自治体がある。
・誰がステークホルダーなのかという点については、市町村によってバラつきがある。

【感想】
・住民ごとに持っている情報や課題意識が異なるので、住民間で議論の前提となる共通の土俵をつくるために、都市マスタープランづくりの前段階の地域別プランを参加型でつくるなどの仕組みが必要。都市マス以外にも、地域福祉計画づくりなどが有効かも。
・地域内分権組織の事務局を誰が担うのかというのも重要なポイント。コーディネーターの力量によって、地域力に差が出てくる。横須賀市の場合は、行政センターの職員(館長も含む)が、事務局を担う仕組み。
・平塚市の「地域自治推進モデル事業」も、「地域内分権組織」に分類できると思うが、平塚市の場合は、公民館が事業協力する重要なプレイヤーとして制度設計されている。現市長が、かつて公民館主事をされていたという経験が、事業モデル構築にあたり影響を与えた可能性があると思われる。ただし、公民館がまちづくりに貢献する度合いは、市町村ごとに温度差があり、平塚市モデルが、他の自治体に応用できるとは限らない。むしろ、公民館職員の専門性が希薄化し、コミセンへの移行が進む現状では、平塚市のモデルはレアケースと考える方がよいのではないか。市町村ごとに社会資源が違うのだから、どのような仕組みをつくるかは地域ごとに考えていくしかない。近道はないのだ。

【市民生活課から】
・横須賀市の場合、「地域運営協議会」は、原則として行政センターを一つの単位としている。中学校区よりもさらに広い範囲が対象となる。
・横須賀市では、2013年1月末現在、6地区の「地域運営協議会」が立ち上がっている。
・地区ごとに、協議会の構成団体や事業内容は異なる。
・浦賀地区の場合は、高齢者の見守り隊の活動や古井戸の再生によるコミュニティ再生などに取り組んでいる。なお、古井戸の再生によるコミュニティ再生は、防災まちづくりとも密接に関係している。
・追浜地区は、ボラセンいきいきサロンと追浜マラソンなどの事業に取り組んでいる。
・他の地区は、昨年から今年にかけて立ち上がったばかりで、具体的な事業はこれから。
・本庁地区(市役所のある中心部)は、あらゆる政策分野において、市役所が直営で地域と関係をもってきた関係で、分野を横断するネットワークがなく、それを構築していくのが今後の課題。「地域運営協議会」の設置は最後になるかもしれない。
・現在立ち上がっている「地域運営協議会」の中にはPTAが入っていない。今後の課題である。
・今後、NPO的な組織がどのような形で「地域運営協議会」に関与できるのかを探ることが課題である。

【感想】
・地縁組織と志縁組織(NPO的なもの)が、どのように地域内分権組織に関わるかが今後の課題。
・議会と「地域運営協議会」の棲み分け・連携については、充分な検討が必要。
・一番の課題は、地縁組織が個々に思い描く地域課題を、それぞれが主張しあう場になってしまうとこと。地域には様々な課題があり、まずはそれらを可視化し、異なる組織間で地域課題を共有することが必要だし、同時に、社会資源の可視化(宝探し)も重要だと思う。課題と資源の双方がステークホルダー全体に「見える化」され、それを共通の土俵として、対話をする場づくりが求められると思う。

●今後の展望(もどき)

・地域の社会資源と地域課題双方の可視化の仕組みづくり(地元学などの手法の導入)
・対話の場づくりのコーディネイトの仕組み(声の大きい人が支配するのではないように)
・声を上げられない人(社会的弱者)のニーズを反映する参加のデザイン(外国人住民、ひきこもり等)
・市民性を育む仕掛け(シティズンシップ教育、地域計画プラン作成への市民の参画)
・場をコーディネイトする人材の育成・配置(コミュニティ・ファシリテーター、コミュニティ・ソーシャルワーカー)
・コミュニティ・シンクタンクの設置・運営
・シヴィル・ミニマムの策定(公共サービスの水準策定)と地域内分権組織の守備範囲の線引きに関する対話の必要性
・志縁組織(NPO、コミュニティ・ビジネス)と地縁組織の対話・連携のデザイン
・既存の公的機関(社会福祉協議会や社会教育施設・文化施設)の機能の再検討(歴史民俗博物館や市政図書館的な場を人々の対話を創発する社会装置として再生していくようなビジョンが必要))→コモンズ(地域情報・地域資源)を集積する機能をもっているのが、ミュージアムなどであるから)

●最後に

「地域運営協議会」のあり方を考えるうえで、ぜひ検討して欲しいのは、自治体とNPO等との協働事業をめぐる現状がどうなっているかの分析・検証である。マルチステイクホルダーによる自治の仕組みづくりの前に、二者(自治体とNPO)の協働が、理想的に運用できていたのか否かをつぶさに見る必要があるのではないかと思う。英国のLSPも、年代ごとに仕組みを変化させている様子が下記の報告書でわかるが、キモは、地域のパートナーシップ組織のコーディネーションの巧拙にかかっているように思える。二者のパートナシップを有効に機能させる知恵を共有していない段階で、マルチステークホルダーによる合意形成の仕組みづくりに着手することはリスクもあるのではないか(人は実践の中で学ぶので、不作為が正しいという意味ではないのですが…)。
http://www.eng.kagawa-u.ac.jp/~doi/lab/work-PDF/(5)/5-2.pdf

机上で最善のプランを練るという発想ではなく、アクション・リサーチのように、創りながら壊し、また創るという、組織自体が自己変容する仕掛けが必要ではないかと思う。それには、制度設計の精密さよりも、場をつくる「人」の思いとデザイン力がより重要な気がする。

2013年2月25日 (月)

『カリコリせんとや生まれけむ』会田誠・幻冬舎文庫を読む(メモ)

電車の中で会田誠の『カリコリせんとや生まれけむ』を読む。興味深い。発達障害の子どもの問題について、彼の妻、岡田裕子が書いている。小学校に入った、会田誠と岡田裕子の長男が、学校から“問題児”と見なされ、注意を受けたことがきっかけとなり、岡田裕子が発達障害の問題、そして子どもへの「まなざし」の向け方について、自問自答する様子が描かれている。(学校から、この子が発達障害の疑いがあるため病院に行った方がよいと勧められ、岡田の苦悶が始まる。)

医療機関が子どもに対して特定の障害名をつけることで、必要な支援が可視化されるという効用がある反面、“障害児”とカテゴライズすることで、その子の個性や長所を摘み取ってしまう危険性もある。教師的な眼差し(“正しさ”に向けて子どもを矯正していくベクトル)と、その子らしさを最大限尊重しようとする眼差し(福祉的な視点)のバランスをとることはそう簡単ではない。しかし、困難な試みではあるが、この背理の中で、親も教師も、迷いながら子どもと“格闘”していくしかないのだ。

それにしても、岡田裕子の文章は含蓄がある。以下少し長くなるが引用してみたい。

性格面で特徴が強かったり、集団行動が苦手だったりする児童は、他人に迷惑をかけることもしばしばで、時に教師や両親などに過剰に叱責されたり、体罰を受けたり、足並み揃えることを強要されることにより、『自分はダメな人間だ』的思考に陥り数々の悪循環を引き起こす場合が多々あるといわれている。LDとされる児童は指導が合わないことでどんどん勉強についていけず“落ちこぼれ”という評価を下され、ますますやる気を失い勉強がわからなくなってゆく。それについては、わたしたち大人が教育について充分に見つめなおし、柔軟な方法を考えてゆかなければならないだろう。ただ、そういった特性を持った子供たちを“早期療育”といった名の下に“障害”と診断を下し、普通学級から取り除いて籍を移し、集団から遠ざけてゆく新体制が、長い目で見て本当にその児童たちにとってプラスになると言い切れるのだろうか。確かに近視眼的に考えれば、その時期は揉め事も少なく、適切な指導も受けやすく健やかに成長するに適した環境かもしれない。でも、学校を卒業したら、みな等しく世知辛い社会に放り出される。真の社会性というものは、級友や先生とのかかわり合いの中で(時に理不尽を感じたり不快があったとしても)揉まれながら、模索しながら自己認識を構築してゆくものであるともいえるのではないだろうか。p.117-118

この文章の後、岡田は、夫の会田誠や、知り合いのアーティスト仲間の生育歴を披露しながら、彼らの幼少時は発達障害児のような行動をしていたものの、大人になった現在、それなりに社会を生きているという事実(fact)を述べる。さらにアーティストは、一般に、自由奔放で非常識と思われがちだが、実際には、多業種の人との打合せをこなし、展覧会の会場に合わせて作品の内容をコントロールするなど、結構高度な社会性を持ちあわせているのだと主張する。

最後に、ご子息の寅次郎君の希望で、普通級に通わせる決断をしたという顛末が綴られている。「あれかこれか」という結論を性急に出さず、迷い続ける母親の姿勢に、「あっぱれ」と言いたい。

上記以外にも、面白いエピソードが満載。オススメの一冊。

2013年2月24日 (日)

フォーラム「学校におけるソーシャルワークを考える」に参加して

ESDフォーラムII:地域と教育「学校におけるソーシャルワークを考える」に参加してきた。

●日時:2013年2月24日(日)13時30分より
●会場:品川区環境情報活動センター
●内容:渡辺岳(神奈川県立高校教諭・社会福祉士)ほかによる提案、ワークショップ
●主催:関係性の教育学会、ESD学校教育研究会


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(渡辺岳氏)

●プログラムの内容
【ESDとは(長岡素彦氏)】
フォーラムに遅刻したので、長岡さんの講義は聞けませんでした。

【渡辺さん講演要旨】

●福祉の仕組みと学校での福祉教育実践
・福祉の仕組みは、フォーマル・システム、インフォーマル・サポート、民間事業の3つに区分できる。
・私(渡辺さん)は、学校における生徒への「福祉体験学習」の部分を実践してきた(上記の区分でインフォーマル・サポートにあたる部分)。
・特に、最後の1年は、東北被災地(大槌町)での生徒のボランティア体験をコーディネイトした。学校のクラスで学ぶ以上に生徒には学びがあったと思う。
・ところで、統計数字のように(PPTスライドを見せながら)、過去20年間で児童虐待の件数が指数関数的に増加している。

●児相の問題点1
・二つのケース(高校生)に遭遇したが、その経験の中から、児童相談所(以下「児相」と表記)という制度の限界が見えた。それは、児相の一時保護所は、学校に通いながらは利用できないということ。外出禁止・面会禁止なので、利用しづらい。
・二つのケースとも、児相に相談したものの、結局児相の制度は利用しなかった。学校の格技場に寝泊まりしていた男子のケースは、児相に預けず、結局、ホームレス支援の団体が運営する施設に入居し、最終的には美容学校に通学することになったので、その学校の寮に入居することになった。女子のケースは、母親との関係が悪く、家出していた。一時的に、母子支援施設に入居した後、最後は、父親の両親に引きとってもらうことになった。

●児相の問題点2
・要対協(要保護児童対策地域協議会)が各地域に設置されることになっているが、あまり機能していない。中学の先生に、要対協の存在を聞いても知らない人が多い。

【注記】平成16年の児童福祉法の改正により、虐待を受けた児童などに対する市町村の体制強化を固めるため、関係機関が連携を図り児童虐待等への対応を行う「要保護児童対策地域協議会(子どもを守る地域ネットワーク)」を設置するとの方針を厚労省が策定。平成18年4月1日現在、神奈川県内の設置率は100%。

●改善提案
一時保護所の運営を児相が独占するのではなく、NPOに運営費を払って委託するという発想が必要ではないか。例えば、東北の大槌臨学舎(コラボ・スクール)の事例は、参考になる。
http://www.collabo-school.net/?page_id=1202

●不登校の要因1
・不登校が増加している。ここ3・4年で色々な生徒に会った。
・原因の一つは、適応障害、起立性障害、エリトマトーデスなどの精神疾患。こういう子どもが医者にかかるのはよいが、医者は、「学校いかなくていいよ」とアドバイスする。しかし、子どもの将来を考えた場合、やはり、学校に通って卒業した方がよいと思う。医療的な観点も理解できるが、福祉的な視点も必要。
・発達障害やコミュニケーション障害が原因で友人関係のトラブルに至り、不登校になる場合もある。

●不登校の要因2
・人間関係が原因となることもある。生徒対生徒の場合と、生徒対教師の場合がある。学校の先生とうまくいかず、うらみをもっと学校をやめていく生徒がいる。
・もうひとつは、学校のルール、家庭、地域などの環境要因である。例えば、貧困家庭では、修学旅行の費用が払えず、そこがつまずきになって不登校になるケースがある。

●不登校の要因3
・非行の問題がある。好ましくないアルバイトが原因で、非行や犯罪にいたるケースもある。

●校内暴力の問題
・校内暴力も多い。児童虐待、不登校、校内暴力は正の相関関係がある。児童虐待の多い地域は、不登校や校内暴力も多い。
・逆に、そういう地域は自殺者が少ないという統計もある。

上記のような子どもを支援する機関がない。児相にはできない。要対協もあまり機能していないようだ。

●困った時の相談先
・問題が生じた時に子どもたちがどこに相談するのかというと、先生に相談にくるのは非常に少ない。生徒はまず友達に相談する。保護者にも相談しない。生徒たちの関係性が大切。
・退学していった生徒をみると、友達がいない子が多い。友達がいる生徒は、学校をやめない。
・友達同士のサポートが重要で、ノーマライゼーションやコミュニケーション教育をすることが大事。そこで、生徒への福祉教育が必要となってくる。

●どのような福祉教育をするか
・ここでの福祉教育は、社会的弱者保護ということだけでなく、自分ひとり一人が福祉の対象となるという意味で、ユニバーサルな福祉教育が重要となる。日本では、これが決定的に欠けている。
・ICFの自己評価。自己を知り、他者を知ることが重要。ICFの自己評価シートを使って、自己評価と他者理解をすることが効果的である。
★ICFについての詳細は以下のURLで
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/08/h0805-1.html

・福祉教育を充実させれば、最終的には、生徒自身がソーシャルワークできるようになる。インテイクの部分は生徒自身がして、教員は生徒から困難を抱えた生徒の状況を聞くことができるようになる。
・生徒同士で問題解決をしていく可能性もある。

●学校教員とスクールカウンセラー・スクールソーシャルワーカーの関係
学校教員が、生徒の問題を専門職(スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー)に丸投げしてしまう傾向が出てきていることが課題である。

●まとめ
健全な学校をつくるためには、ソーシャルワークを学校の導入することが必要だが、それだけではダメで、福祉教育とセットにすることが必要。この両者がうまく機能することで、学校はエンパワーメントされる。


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(ファシリテーション・グラフィックをする長岡氏)

【参加者との情報交換(主な話題)】
・ESDと福祉教育の最終目的は?
・エンカウンターグループやピアサポート等の手法は、高校の福祉教育の中に普及していたのか?
・キャリア教育と職業教育の違い
・高校へのスクールソーシャルワーカーの配置の状況は?
・高校で実践されているシティズンシップ教育はどのような内容か(選挙制度を教える??)
・学校は、理性(価値観)を教えるべきかいなか?
・自殺をしたいという生徒に対し、自己決定原則だけでいいのか?こうい場合、パターナリズムも必要ではないか?
・今大学生。日本BBS連盟の地方組織(平塚市)に所属し、要保護観察の生徒のお兄さん役をしている。「日本BBS連携」については以下のURLを参照。
http://www2.ocn.ne.jp/~bbsjapan/

■ブログ運営者の感想
・渡辺先生のように、高校生世代の子どもの問題に真剣に向き合ってきた教師からみると、児童相談所のメニューは使い勝手の悪い点があるのだろう。しかし、一方で、児童相談所の職員は、一人で100ケース近くを抱え、手が回らないという実態もある。支援メニューを柔軟にすることは勿論だが、児相職員が置かれた環境の改善も同時に図る必要がある。それとともに、児相以外のNPO的な取組への支援の仕組みを充実させることも忘れてはならない。とにかく、12歳から22歳くらいまでの青少年に対する支援施策(学校の内外ともに)が不十分なのだ。誰かを非難することよりも、ささやかでも、自分のできるところから始めてみたい。

★★渡辺岳さんからの修正コメントが来ましたので、以下に掲載します。お詫びして、訂正します。

① エリテマトーデスや起立性障害、適応障害は精神疾患ではないのです。
このような症状はなかなか治癒しにくい疾患で、長い闘いになります。その間に心を病んでしまうケースがある(多い)と云うことです。

様々な不登校の要因が考えられますが、医療で治癒させるという考え方だけでなく、福祉的対応があってよいと云うのが私の考えです。

不登校の状態から退学を決心するというのは、長い目で見れば自分自身でスティグマを背負い込んでしまうという事でもある訳です。

② 制度的福祉(Formal-system)、制度によらない支援や見守り(Informal-Support)、民間事業、これらの相互作用で効果的に福祉サービスが実行されるべきだと云うのが福祉ミックスの考え方です。

「モバイルミュージアム行動する博物館」西野嘉章著・平凡社を読んで(メモ)

僕がはじめて読んだ西野嘉章先生の本は、『博物館学~フランスの文化と戦略』東京大学出版会だった。その時は、それほど大きな刺激を受けなかった。しかし、昨年出版された『モバイルミュージアム 行動する博物館~21世紀の文化経済論』を読み、西野先生が日本のミュージアム事情と文化政策に詳しいことに驚いた。

西野先生と言えば、『西洋美術書誌考』に象徴されるように、美術史に関する膨大な知識を持つ博覧強記な人物という印象が強い。こんなに実践的な博物館政策に関する知識(だけでなく熱いハートも)をもっていたのかぁー、というのが正直な感想だ。しかし、よくよく西野先生の専門を調べてみると、博物館学という分野がちゃんと入っている。「西野嘉章=美術史研究」という僕の認識が偏っていたのだ。

以下、本の中から気になったところを引用しながら、短く印象を述べたい。

特に一番最初のパラグラフで西野さんが主張することは、英国シティ大学客員教授のジョン・ホールデン<DEMOS(英国の文化政策シンクタンク)元・文化政策部長>の提言と重なるところが大きいように思う。ジョン・ホールデンの「文化の価値をめぐるダイアグラム」理論については、2013年3月初旬に出版予定の『地域に生きるミュージアム』福原義春編・現代企画室(企画:かながわ国際交流財団)で紹介しているので、興味のある方はぜひ購入を検討してみてください(^^)。

●以下本からの抜粋とブログ運営者による短いコメント

【ミュージアム事業の評価手法】

ミュージアムが社会のなかにあってその本来的な使命を安定的に果たしてゆくにはどうしたらよいか。この問いに答える前に、学芸活動の「総事業価値」について考えて欲しい。「総事業価値」とは、ひとことで言うなら、ミュージアムが事業を通じて生み出す、社会教育上の価値の総量のことを指す。学芸活動の生産する価値は、学術的な価値から、教育的、経済的、社会的なそれまで多岐にわたるが、これらすべて包摂し、あるイベントが社会に対して与えた「インパクト」の大きさを、それの継続時間で積分した値が指標となる。ただし、ここに言う「インパクト」には、ミュージアムの企画展に足を運んだり、ミュージアムで実施する各種イベントや、ワークショップ、ボランティア、学術研究といった諸活動に参加したりする直接受容者に対するものと、各種メディアの提供する情報や印刷物を介して間接的にしか上記の活動に触れる機会のなかった間接受容者に対するものの、ふた通りを想定しなくてはならない。P.56-57

ミュージアムの学芸活動は、しかし、打ち上げ花火に近い特別展、閑古鳥の鳴く常設展だけに限らない。たとえば、モバイル展示のようなものはどうか。低予算で、小規模の事業。もとより社会的な「インパクト」は大きくはないが、中長期のスパンで継続できる。それを国内外各地で並行的に維持できたら、上に記した指標概念からすると、大規模企画展に負けぬ「総事業価値」をはじき出すことができる。そのことを実証してみせたのが、異業種ながらアマゾンのネット通販モデルであった。ミュージアムは、これまで、「テール」を見ずに「ヘッド」ばかりを狙ったきた。これからのミュージアムは、同時並行的に複数の「モバイルミュージアム」を循環させる、ネットワーク型で効率がよく、しかも資源消費の少ない小規模事業を、中期から長期にわたって維持継続させる「テール」型事業モデルにシフトし、「総事業価値」の拡大を図るべきなのではないだろうか。P.60-61

「ねぶた」は市内を引き回される台車の呼び名である。しかし、「ねぶた祭」は台車を制作し、それを活用する祭礼システムそのものである。理由はこうである。すなわち、青森市の「ねぶた」台車は市内を引き回されたのち、近隣の町に引き渡され、そこで規模を縮小した「町ねぶた」が実演される。そこが終わると、同様のプロセスを経て、さらに小さな村へ運ばれる。「村ねぶた」台車は、さらに在に運ばれ、最終的に祭礼用具としての使用価値を消費しきったのち、存在を消滅させる。ただし、毎年幾台も制作される「ねぶた」台車のなかで、有名な絵師になるもの、できのよいものは、「ねぶたの里」と呼ばれる保管施設で保存されることになる。要するに、市、町、村、在という共同体ネットワークのなかで、地域住民が制作を担い、役務を賄った造作物が、一方で用具としての使用価値がゼロになるまで活用され、他方でその地域の「文化資本」の年ごとの増加に寄与する、という仕掛けが成立しているのである。P.62-63

伝統的な祭りとして実施される文化イベントの経営論的バランスシートは、観光事業、伝統文化、技術継承、地域的アイデンティティなど、その行事全体の経済学として検証されなくてはならない。そのプロセス全体を見渡した上で、費用対効果が計られなければならない、そのことをこの事例は物語っている。P.64

ところで、ミュージアムにおける学芸事業のあり方はどうか。伝統的祭礼行事のような全体型システムが成立していると言えるであろうか。観光客を来館者に置き換えると、祭事も特別展も一過的な集客イベントであり、外形的にはよく似ている。しかし、ミュージアムの特別展には、上に紹介した祭礼行事が文化的価値交換システムとして有する、合理性はもとより、経済的な説得性がどこからも見えてこない。ミュージアムの関係者は、しばしば予算のことを口にするが、日々の活動における予算執行がはたして妥当性をもつものなか、そのことを真剣に検討しているのか、あらめて問うてみたい。ここに言う「妥当性」とは、会計法的ない意味での適法性という意味ではない。そうではなくて、限られた予算のなかで、公益性が、費用対効果という面から見て、最大限に追求されているか、コレクションの増大が見込まれているか、そうしたことが問われなければならないのである。p.64-65


■この指摘は少々耳が痛い。かつて、某学習・文化施設で、市民活動資料のデジタル・アーカイブ事業を立ちあげるべく、システムづくりをした経験があるが、この事業が、その地域の公益性にどのように貢献するのかについて、十分な説明をしてきたかと言えば、あまり自信がない。社会教育や文化政策に関心のある人には、この事業の意義についてプレゼンする機会を何度か持ったものの、アーカイブズ的なものに関心のない人々に対して、十分な説明をしてきたかと言えば、「はい」とは言いきれない。反省(^^ゞ。

現在の企画展のあり方に費用対効果の面があると断じたのは、「イベントの経済学」に縛られ過ぎており、「総事業価値の経済学」という視点が欠けているからである。前者は、企画展の実施を、閉じられた一個の予算枠内で考える視点。すなわち、企画展事業について、いくらの予算を投入し、来館者数がどれほどで、入場料とグッズ販売でどれほどの収入があったのか、という短観的な視点でバランスシートを閉じようとする。ここには、消費型事業に関する帳尻合わせがあっても、伝統文化の継承、技術力の維持、公益性への寄与といった視点が欠落している。それに対して後者は。企画展の実施を、より大きな時系列的システム全体のなかのひとつとしてのイベントとして捉え、中長期スパンにわたる、時間枠的にも活動域的にも、より拡張されたバランスシートの上で吟味しようとする。企画展を、それ以外のミュージアムの様々な活動と結節させ、そのシステム全体の経済学という観点から顧みる視点。そうしたシステム経済学的な視点を導入すると、展覧会の実施コストという概念のなかから、また別の側面が見えてくる。P.65

■行政コスト計算やCS調査など、2000年代中盤くらいに流行した行政経営評価の手法だけでは、ミュージアムの価値は測れないということである。企画展毎の入場者数や単年度の収入・支出という金額だけに着目するのではなく、長期的なスパンの中で、ミュージアムが社会に与えたインパクトの総量をもって事業価値を評価すべし、ということだと思う。ただ、従来のように「文化には金がかかる」「ミュージアムの価値は目に見えない」という抽象論ではなく、「総事業価値」というアイデアのもと、公益への貢献を何らかの形で可視化しようというところが、西野さんの新しい主張だ。

【ミドルヤードというアイデア】

最後が「ミドルヤード」である。これまでのミュージアム施設は、その公開性の程度に応じて、フロンドヤードとバックヤードに大別されてきた。ならば、その中間域に「ミドルヤード」を加えてみたらどうか。バックヤードに位置づけられてきた研究機能とフロンドヤードに位置づけられてきたワークショップ機能が、相互浸透する併用スペース。その曖昧な「間」をどう生かせるかという試みである。先述の「マクロ先端研究発信オープンラボ」構想が、まさにこの具体例となる。大学で推進されている高度な研究の現場と、それを基盤として支える学術標本の収蔵スペースに、専門研究者や大学・院生だけでなく、初等中等高等学校の生徒を誘い、「複合教育プログラム」を実施しようとする企画である。

ニ○○八年七月に開催された企画展示「UMUTオープンラボ――建築模型の博物都市」は、「ミドルヤード」の機能を具体的に例証してみせる場となった。展示予算なしという最悪の条件が課せられたため、学生の力を活用することになった。建築を専攻する学内外の学生や院生に、世界の有名建築の縮体模型を作らせ、それらを並べて見せるというのが、展示の趣旨である。準備に半年近くを費やしたが、当初用意できた模型は、百台にも満たなかった。しかし、展示が始まってからも、会場の一角に「オープンラボ」が設えられ、そこに用意された作業台で、制作作業が続けられた。会期終了時には百五十台ほどの模型に仕上がり、それらで会場を埋め尽くした。この展覧会は、結果的に、展示をおこないつつ、コレクションの充実を測る、一石二鳥の試みとなった。そればかりか、そこで制作された建築模型は、その後、「モバイルミュージアム」のコンテンツとしても活用されている。要するに、一石三鳥になった、というわけである。P.148-149

大学生と子供が、展示会場に設えられた「オープンラボ」で一緒に作業する。こうした形式のワークショップでは、教える側と教わる側が、役割の入れ替えゲームを演じることになる。(中略)この入れ替えゲームの参加者は、学童から小学校教員、大学生・院生、研究者、大学教員、ボランティア、一般社会人まで幅広い。「オープンラボ」は、年齢、履歴、スキル、専門の隔てを超えて、知識や技術がやり取りされる場である。それこそ、われわれが「複合教育プログラム」という言葉を使う所以である。ミュージアムは、そうした場を用意できる。逆に言うと、そうした場を用意できるのは、ミュージアムしかないということである。p.150

【分野横断型のミュージアムのあり方】

これまで、博物館、美術館、文書館、資料館など、広義の意味でミュージアムとみなされる公共文化施設は、歴史や自然、芸術、科学、技術など、専門分野や個別領域で縦割りに系列されてきた。それら専門個別に特化された存在様態は、学術研究や展示活動など、施設の管理運営や人員の組織整備の面で、なるほど効率的であった。しかし、企画の構想や展示の手法が個々の領域内に自閉する方向に傾きがちで、ミュージアム概念それ自体を陳腐化させる要因でもあった。「インターメディアテク」が従来のミュージアムと一線を画する所以は、常設展や企画展の実現、コレクションの収集や研究、鑑賞機会の提供を、学芸事業の究極的な到達目標とするのではなく、常設展や企画展の会場、あるいはコレクションの収蔵展示の空間を、多様な表現メディアが出合いを演じる「舞台」なして「背景」と位置づけようとしているからである。p.175

■なかなか面白い発想だ。しかし、実現するのは容易ではない。複数のミュージアムを物理的に1館に集約・統合するという発想ではなく、まずは、MLA(博物館、図書館、文書館)が連携し、デジタル・アーカイブズの仕組みをつくるというプロジェクトに着手し、徐々に施設間の共有部分を広げていったらどうか。コスト削減のために社会教育施設を統廃合するのではなく、施設の事業効果を最大化するために施設間の壁を融解し、新しい価値をつくりだす作戦を、外部の団体を含めてみんなで考えていくのは、楽しい企てとなるのではないか!

2013年2月18日 (月)

「怒りのソウル・日本以上の『格差社会』を生きる韓国」を読んで

「怒りのソウル・日本以上の『格差社会』を生きる韓国」雨宮処凛、金曜日、2008年。5年ほど前の本。タイトルが気になって読んだ。
http://www.kinyobi.co.jp/publish/publish_detail.php?no=426

雨宮によれば、韓国の非正規労働者は、全体の約50%。賃金も、正規労働者の半分だという。中でも、20代の非正規労働者の割合は、90%に達し、「88ウオン世代」と呼ばれる。「88ウオン」とは、20代の非正規雇用者の平均賃金で、日本円にして8万8千円程度。

韓国の大学進学率は80%を超えており、高学歴者が多いものの、大学を卒業してもなかなか正規の職につけない現実がある。公務員の志願者が多く、地方公務員試験の競争率は約100倍といわれる。20代の5%しか、大企業や官公庁に就職できないらしい。

韓国が、このような凄まじい競争社会・格差社会になってしまった背景に、1997年の経済危機の直後にIMFの緊急融資を受けたことがあると言われる。IMFは、融資の条件として韓国政府に対して構造改革を要求し、その結果、労働市場の規制緩和を進める2つの法律(=労働者派遣法・整理解雇法)が1998年に成立。この政策がワーキングプア発生の原因になったのだという。

日本と同様、韓国でも、20代の死因の第1位は自殺だそうだ。大学を出ても正規職にありつけない若者の絶望感が背景にあるのではないか? 気になって、各国の自殺率を調べてみたら、現在、自殺率のトップはリトアニアで、韓国は世界第2位。とはいえ、リトアニアと韓国のそれは僅差であり、韓国の自殺率が世界トップクラスであることに変わりはない。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html

こうした厳しい格差社会の中で、オルタナティブな生き方を模索する社会運動が生まれてきているようだ。雨宮は本の中で二つの事例を取り上げる。

一つは、アーティスト集団「芸術の都市社会研究所」による、Squatting(空き家の“違法”占拠)だ。リーダーは、金江(キムガン)で、パリに留学経験のある女性。パリ留学の際にSquattingに興味を持ち、帰国後、韓国初のSquattingを行う。数年間未使用のまま放置されていた「芸術人会館」という建物を一時的に占拠したのだ。この企てはすぐに中止に追い込まれたが、周到に計画された彼女たちの試み(事前に弁護士に相談し、マスコミに事前に通報)は、社会にセンセーションを巻き起こしたという。

二つ目の例は、研究空間「スユ+ノモ」。「研究者たちが共同で立ち上げた研究と共同生活のためのコミューン的な場所」だ。約60人の正会員と200~300人のセミナー会員の会費で運営される組織で、会員には大学の非常勤職員やフリーターがなっているらしい。場所はソウル市内のビルの一角にあり、教室のほか、大講義室、ヨガ室、厨房、カフェ、育児室を備える。会員が食べる食材は、知り合いの農村コミュニティから無料で送ってもらうという(贈与経済)。

雨宮は、「スユ+ノモ」を「老若男女が集まり、御飯を食べたり講義を聞いたり勉強会を開いたり話し合ったり、かと思えば子どもが遊んでいたり昼寝をしたりヨガをしたり、そんな目の前の『ごった煮』な空間が、奇跡的なことのように思えた」と描写する。

また、「スユ+ノモ」の酋長の高(コ)は、雨宮の質問に答えて、「資本主義社会の中で苦しめられている人たちに、そういう外部が作れるということを気づかせ、そういう生き方ができるように触発することが私たちの課題、目標であると言えます」と語る。

「スユ+ノモ」をめぐる雨宮の文章と高(コ)の語りを読みながら、トランジション・タウン、そして「芝の家」を連想した。
●トランジション・タウン
●芝の家

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