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2013年2月24日 (日)

「モバイルミュージアム行動する博物館」西野嘉章著・平凡社を読んで(メモ)

僕がはじめて読んだ西野嘉章先生の本は、『博物館学~フランスの文化と戦略』東京大学出版会だった。その時は、それほど大きな刺激を受けなかった。しかし、昨年出版された『モバイルミュージアム 行動する博物館~21世紀の文化経済論』を読み、西野先生が日本のミュージアム事情と文化政策に詳しいことに驚いた。

西野先生と言えば、『西洋美術書誌考』に象徴されるように、美術史に関する膨大な知識を持つ博覧強記な人物という印象が強い。こんなに実践的な博物館政策に関する知識(だけでなく熱いハートも)をもっていたのかぁー、というのが正直な感想だ。しかし、よくよく西野先生の専門を調べてみると、博物館学という分野がちゃんと入っている。「西野嘉章=美術史研究」という僕の認識が偏っていたのだ。

以下、本の中から気になったところを引用しながら、短く印象を述べたい。

特に一番最初のパラグラフで西野さんが主張することは、英国シティ大学客員教授のジョン・ホールデン<DEMOS(英国の文化政策シンクタンク)元・文化政策部長>の提言と重なるところが大きいように思う。ジョン・ホールデンの「文化の価値をめぐるダイアグラム」理論については、2013年3月初旬に出版予定の『地域に生きるミュージアム』福原義春編・現代企画室(企画:かながわ国際交流財団)で紹介しているので、興味のある方はぜひ購入を検討してみてください(^^)。

●以下本からの抜粋とブログ運営者による短いコメント

【ミュージアム事業の評価手法】

ミュージアムが社会のなかにあってその本来的な使命を安定的に果たしてゆくにはどうしたらよいか。この問いに答える前に、学芸活動の「総事業価値」について考えて欲しい。「総事業価値」とは、ひとことで言うなら、ミュージアムが事業を通じて生み出す、社会教育上の価値の総量のことを指す。学芸活動の生産する価値は、学術的な価値から、教育的、経済的、社会的なそれまで多岐にわたるが、これらすべて包摂し、あるイベントが社会に対して与えた「インパクト」の大きさを、それの継続時間で積分した値が指標となる。ただし、ここに言う「インパクト」には、ミュージアムの企画展に足を運んだり、ミュージアムで実施する各種イベントや、ワークショップ、ボランティア、学術研究といった諸活動に参加したりする直接受容者に対するものと、各種メディアの提供する情報や印刷物を介して間接的にしか上記の活動に触れる機会のなかった間接受容者に対するものの、ふた通りを想定しなくてはならない。P.56-57

ミュージアムの学芸活動は、しかし、打ち上げ花火に近い特別展、閑古鳥の鳴く常設展だけに限らない。たとえば、モバイル展示のようなものはどうか。低予算で、小規模の事業。もとより社会的な「インパクト」は大きくはないが、中長期のスパンで継続できる。それを国内外各地で並行的に維持できたら、上に記した指標概念からすると、大規模企画展に負けぬ「総事業価値」をはじき出すことができる。そのことを実証してみせたのが、異業種ながらアマゾンのネット通販モデルであった。ミュージアムは、これまで、「テール」を見ずに「ヘッド」ばかりを狙ったきた。これからのミュージアムは、同時並行的に複数の「モバイルミュージアム」を循環させる、ネットワーク型で効率がよく、しかも資源消費の少ない小規模事業を、中期から長期にわたって維持継続させる「テール」型事業モデルにシフトし、「総事業価値」の拡大を図るべきなのではないだろうか。P.60-61

「ねぶた」は市内を引き回される台車の呼び名である。しかし、「ねぶた祭」は台車を制作し、それを活用する祭礼システムそのものである。理由はこうである。すなわち、青森市の「ねぶた」台車は市内を引き回されたのち、近隣の町に引き渡され、そこで規模を縮小した「町ねぶた」が実演される。そこが終わると、同様のプロセスを経て、さらに小さな村へ運ばれる。「村ねぶた」台車は、さらに在に運ばれ、最終的に祭礼用具としての使用価値を消費しきったのち、存在を消滅させる。ただし、毎年幾台も制作される「ねぶた」台車のなかで、有名な絵師になるもの、できのよいものは、「ねぶたの里」と呼ばれる保管施設で保存されることになる。要するに、市、町、村、在という共同体ネットワークのなかで、地域住民が制作を担い、役務を賄った造作物が、一方で用具としての使用価値がゼロになるまで活用され、他方でその地域の「文化資本」の年ごとの増加に寄与する、という仕掛けが成立しているのである。P.62-63

伝統的な祭りとして実施される文化イベントの経営論的バランスシートは、観光事業、伝統文化、技術継承、地域的アイデンティティなど、その行事全体の経済学として検証されなくてはならない。そのプロセス全体を見渡した上で、費用対効果が計られなければならない、そのことをこの事例は物語っている。P.64

ところで、ミュージアムにおける学芸事業のあり方はどうか。伝統的祭礼行事のような全体型システムが成立していると言えるであろうか。観光客を来館者に置き換えると、祭事も特別展も一過的な集客イベントであり、外形的にはよく似ている。しかし、ミュージアムの特別展には、上に紹介した祭礼行事が文化的価値交換システムとして有する、合理性はもとより、経済的な説得性がどこからも見えてこない。ミュージアムの関係者は、しばしば予算のことを口にするが、日々の活動における予算執行がはたして妥当性をもつものなか、そのことを真剣に検討しているのか、あらめて問うてみたい。ここに言う「妥当性」とは、会計法的ない意味での適法性という意味ではない。そうではなくて、限られた予算のなかで、公益性が、費用対効果という面から見て、最大限に追求されているか、コレクションの増大が見込まれているか、そうしたことが問われなければならないのである。p.64-65


■この指摘は少々耳が痛い。かつて、某学習・文化施設で、市民活動資料のデジタル・アーカイブ事業を立ちあげるべく、システムづくりをした経験があるが、この事業が、その地域の公益性にどのように貢献するのかについて、十分な説明をしてきたかと言えば、あまり自信がない。社会教育や文化政策に関心のある人には、この事業の意義についてプレゼンする機会を何度か持ったものの、アーカイブズ的なものに関心のない人々に対して、十分な説明をしてきたかと言えば、「はい」とは言いきれない。反省(^^ゞ。

現在の企画展のあり方に費用対効果の面があると断じたのは、「イベントの経済学」に縛られ過ぎており、「総事業価値の経済学」という視点が欠けているからである。前者は、企画展の実施を、閉じられた一個の予算枠内で考える視点。すなわち、企画展事業について、いくらの予算を投入し、来館者数がどれほどで、入場料とグッズ販売でどれほどの収入があったのか、という短観的な視点でバランスシートを閉じようとする。ここには、消費型事業に関する帳尻合わせがあっても、伝統文化の継承、技術力の維持、公益性への寄与といった視点が欠落している。それに対して後者は。企画展の実施を、より大きな時系列的システム全体のなかのひとつとしてのイベントとして捉え、中長期スパンにわたる、時間枠的にも活動域的にも、より拡張されたバランスシートの上で吟味しようとする。企画展を、それ以外のミュージアムの様々な活動と結節させ、そのシステム全体の経済学という観点から顧みる視点。そうしたシステム経済学的な視点を導入すると、展覧会の実施コストという概念のなかから、また別の側面が見えてくる。P.65

■行政コスト計算やCS調査など、2000年代中盤くらいに流行した行政経営評価の手法だけでは、ミュージアムの価値は測れないということである。企画展毎の入場者数や単年度の収入・支出という金額だけに着目するのではなく、長期的なスパンの中で、ミュージアムが社会に与えたインパクトの総量をもって事業価値を評価すべし、ということだと思う。ただ、従来のように「文化には金がかかる」「ミュージアムの価値は目に見えない」という抽象論ではなく、「総事業価値」というアイデアのもと、公益への貢献を何らかの形で可視化しようというところが、西野さんの新しい主張だ。

【ミドルヤードというアイデア】

最後が「ミドルヤード」である。これまでのミュージアム施設は、その公開性の程度に応じて、フロンドヤードとバックヤードに大別されてきた。ならば、その中間域に「ミドルヤード」を加えてみたらどうか。バックヤードに位置づけられてきた研究機能とフロンドヤードに位置づけられてきたワークショップ機能が、相互浸透する併用スペース。その曖昧な「間」をどう生かせるかという試みである。先述の「マクロ先端研究発信オープンラボ」構想が、まさにこの具体例となる。大学で推進されている高度な研究の現場と、それを基盤として支える学術標本の収蔵スペースに、専門研究者や大学・院生だけでなく、初等中等高等学校の生徒を誘い、「複合教育プログラム」を実施しようとする企画である。

ニ○○八年七月に開催された企画展示「UMUTオープンラボ――建築模型の博物都市」は、「ミドルヤード」の機能を具体的に例証してみせる場となった。展示予算なしという最悪の条件が課せられたため、学生の力を活用することになった。建築を専攻する学内外の学生や院生に、世界の有名建築の縮体模型を作らせ、それらを並べて見せるというのが、展示の趣旨である。準備に半年近くを費やしたが、当初用意できた模型は、百台にも満たなかった。しかし、展示が始まってからも、会場の一角に「オープンラボ」が設えられ、そこに用意された作業台で、制作作業が続けられた。会期終了時には百五十台ほどの模型に仕上がり、それらで会場を埋め尽くした。この展覧会は、結果的に、展示をおこないつつ、コレクションの充実を測る、一石二鳥の試みとなった。そればかりか、そこで制作された建築模型は、その後、「モバイルミュージアム」のコンテンツとしても活用されている。要するに、一石三鳥になった、というわけである。P.148-149

大学生と子供が、展示会場に設えられた「オープンラボ」で一緒に作業する。こうした形式のワークショップでは、教える側と教わる側が、役割の入れ替えゲームを演じることになる。(中略)この入れ替えゲームの参加者は、学童から小学校教員、大学生・院生、研究者、大学教員、ボランティア、一般社会人まで幅広い。「オープンラボ」は、年齢、履歴、スキル、専門の隔てを超えて、知識や技術がやり取りされる場である。それこそ、われわれが「複合教育プログラム」という言葉を使う所以である。ミュージアムは、そうした場を用意できる。逆に言うと、そうした場を用意できるのは、ミュージアムしかないということである。p.150

【分野横断型のミュージアムのあり方】

これまで、博物館、美術館、文書館、資料館など、広義の意味でミュージアムとみなされる公共文化施設は、歴史や自然、芸術、科学、技術など、専門分野や個別領域で縦割りに系列されてきた。それら専門個別に特化された存在様態は、学術研究や展示活動など、施設の管理運営や人員の組織整備の面で、なるほど効率的であった。しかし、企画の構想や展示の手法が個々の領域内に自閉する方向に傾きがちで、ミュージアム概念それ自体を陳腐化させる要因でもあった。「インターメディアテク」が従来のミュージアムと一線を画する所以は、常設展や企画展の実現、コレクションの収集や研究、鑑賞機会の提供を、学芸事業の究極的な到達目標とするのではなく、常設展や企画展の会場、あるいはコレクションの収蔵展示の空間を、多様な表現メディアが出合いを演じる「舞台」なして「背景」と位置づけようとしているからである。p.175

■なかなか面白い発想だ。しかし、実現するのは容易ではない。複数のミュージアムを物理的に1館に集約・統合するという発想ではなく、まずは、MLA(博物館、図書館、文書館)が連携し、デジタル・アーカイブズの仕組みをつくるというプロジェクトに着手し、徐々に施設間の共有部分を広げていったらどうか。コスト削減のために社会教育施設を統廃合するのではなく、施設の事業効果を最大化するために施設間の壁を融解し、新しい価値をつくりだす作戦を、外部の団体を含めてみんなで考えていくのは、楽しい企てとなるのではないか!

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