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2013年2月25日 (月)

『カリコリせんとや生まれけむ』会田誠・幻冬舎文庫を読む(メモ)

電車の中で会田誠の『カリコリせんとや生まれけむ』を読む。興味深い。発達障害の子どもの問題について、彼の妻、岡田裕子が書いている。小学校に入った、会田誠と岡田裕子の長男が、学校から“問題児”と見なされ、注意を受けたことがきっかけとなり、岡田裕子が発達障害の問題、そして子どもへの「まなざし」の向け方について、自問自答する様子が描かれている。(学校から、この子が発達障害の疑いがあるため病院に行った方がよいと勧められ、岡田の苦悶が始まる。)

医療機関が子どもに対して特定の障害名をつけることで、必要な支援が可視化されるという効用がある反面、“障害児”とカテゴライズすることで、その子の個性や長所を摘み取ってしまう危険性もある。教師的な眼差し(“正しさ”に向けて子どもを矯正していくベクトル)と、その子らしさを最大限尊重しようとする眼差し(福祉的な視点)のバランスをとることはそう簡単ではない。しかし、困難な試みではあるが、この背理の中で、親も教師も、迷いながら子どもと“格闘”していくしかないのだ。

それにしても、岡田裕子の文章は含蓄がある。以下少し長くなるが引用してみたい。

性格面で特徴が強かったり、集団行動が苦手だったりする児童は、他人に迷惑をかけることもしばしばで、時に教師や両親などに過剰に叱責されたり、体罰を受けたり、足並み揃えることを強要されることにより、『自分はダメな人間だ』的思考に陥り数々の悪循環を引き起こす場合が多々あるといわれている。LDとされる児童は指導が合わないことでどんどん勉強についていけず“落ちこぼれ”という評価を下され、ますますやる気を失い勉強がわからなくなってゆく。それについては、わたしたち大人が教育について充分に見つめなおし、柔軟な方法を考えてゆかなければならないだろう。ただ、そういった特性を持った子供たちを“早期療育”といった名の下に“障害”と診断を下し、普通学級から取り除いて籍を移し、集団から遠ざけてゆく新体制が、長い目で見て本当にその児童たちにとってプラスになると言い切れるのだろうか。確かに近視眼的に考えれば、その時期は揉め事も少なく、適切な指導も受けやすく健やかに成長するに適した環境かもしれない。でも、学校を卒業したら、みな等しく世知辛い社会に放り出される。真の社会性というものは、級友や先生とのかかわり合いの中で(時に理不尽を感じたり不快があったとしても)揉まれながら、模索しながら自己認識を構築してゆくものであるともいえるのではないだろうか。p.117-118

この文章の後、岡田は、夫の会田誠や、知り合いのアーティスト仲間の生育歴を披露しながら、彼らの幼少時は発達障害児のような行動をしていたものの、大人になった現在、それなりに社会を生きているという事実(fact)を述べる。さらにアーティストは、一般に、自由奔放で非常識と思われがちだが、実際には、多業種の人との打合せをこなし、展覧会の会場に合わせて作品の内容をコントロールするなど、結構高度な社会性を持ちあわせているのだと主張する。

最後に、ご子息の寅次郎君の希望で、普通級に通わせる決断をしたという顛末が綴られている。「あれかこれか」という結論を性急に出さず、迷い続ける母親の姿勢に、「あっぱれ」と言いたい。

上記以外にも、面白いエピソードが満載。オススメの一冊。

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